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“Oh Darling, Let’s Be Adventurers.” 旅、映画、写真とか

2023 look back

そろそろ、今年1年を振り返るようなタイミングに来た。

ここ何年かは、新月の度にアファメーションしてみたり一年の初めに目標立てたり、何かしらしているけど、なんだか毎年なんとなく終わらせてきた感じで、目に見える形で目標達成したり成長を実感したりすることができなかったように思う。

 

でも、今年は、明らかに去年までとは違う、変化とが成長が現れたので、記録しておいてみる。

 

まず今年は、洋書を読む習慣がついた。

ただいま読みかけのJay ShettyのThink Like a Monk

今までも本は読んでいたけど、洋書のペーパーバックを何冊も読んだのは初めて。

読んでるときは、知らない単語もたくさん出てくるし、調べるのも面倒でそのまま読み進めているから結局理解度は70%前後なんじゃないかと思うけど、それでもやっぱり、たくさん読んで慣れてくると、読むのも早くなるし、文脈で理解する力がついてくる。それに、興味ある分野の本しか読まないから、同じような単語が出てきて記憶もしやすい。

 

次に、身体の変化。

ヨガを続けてて、今年は正直あまり満足のいく練習量ではなかったけど、身体はちゃんと変更しているのを実感できて、ちゃんと成長しているなぁと嬉しくなった。

具体的には、肩周りの柔軟性が上がって後屈がしやすくなったのと、足の脛の硬さが少しずつ取れて、足の甲の柔軟性も上がったこと。

特に脛の硬さについては、長年の内股に呪われてまじでガッチガチだから、来年も引き続き解して癖を取っていきたい。

すんごい微々たる変化だけど、これらのお陰で取りやすくなったポーズがたくさんあるし、30過ぎても身体が変化できることを経験するのは本当に素晴らしい。

 

そして、今年新しく始めた、というか増やしたこと。

去年から自主開催でやってるヨガクラスの、クラスの本数を増やした。

慣れないリラックスヨガとか、1日に2本とか、他の仕事がある中で自分にとってはかなりハードなチャレンジだったけど、なんとか1年やり切った。

でも、この自主開催クラスは、少しお休みすることにした。

いつも欠かさずクラスを受講してくれる人がいるからこそ成り立っている環境の中、ここ数ヶ月は自分の準備不足とか体調とか色々なことが重なって、十分なクラスを提供できなかったと思っているから。

これは、まとめて時間を作って、充電が必要だな、と感じてしまった。

ちゃんと知識を蓄えて経験を重ねて、また成長して戻ってきたい。

 

 

来年は、今年読んだ洋書のレビューでも書いてみようかね。

もう一回読み直して、まとめないといけなさそうだけど〜。

そして、内股を治す。 美脚目指すぞー笑

そして、ヨガを伝える場も、増やしていきたい。

 

 

今年残りあと1か月も、もう少しじっくり1年を深く振り返って、来年に繋げていこう😌

Reunion

母方の祖母が亡くなり、急遽お葬式に参列するために母の実家に行ってきた。

羽田から飛行機で3時間の田舎で、子供の頃は毎年夏休みに帰っていて大好きな場所。

 

大人になってからは、こういう機会での訪問が増え、寂しい反面、久しぶりに会う叔父や叔母、従姉妹たちと顔を合わせられるのは滅多にない良い機会だった。

 

祖母の通夜は、自宅でおこなわれた。

ずっと病院や施設で過ごしてきた祖母は、実に11年振りの帰宅。

最後の最後に、自分のお家に戻ってくることができて、本当によかったね。

 

出棺までの数日、普段は皆で食事をする広間に、祖母は静かに横たわっていた。

十数年前、祖父が亡くなったときも同じく自宅での通夜だった。

 

もう自分が子供の頃とは何もかもが変わっているけど、今も昔もずっと祖母の家は変わらずそこにあって、何かの度に各地から親戚皆が集合する。

この数日も、祖母を囲んで昔話に花を咲かせたり、祖母と孫たちとの写真を眺めたり、従姉妹の子供が広間を走り回ったり、みんなで祖母の周りで各々が色んな想いを抱きながら過ごしていた。すごく温かい時間だった。

 

人が生まれたときと亡くなるときというのは、周りでものすごくたくさんのエネルギーが動く。

今回感じたのは、必ずしも命の始まりがポジティブなエネルギーで、命の終わりがネガティブなエネルギーではない、ということ。

祖母の死のあとに、たくさんのポジティブなエネルギーを感じることができた。

 

祖母は感情表現豊かで、賑やかな人だった。長女のくせに奔放で、愛される存在だったと思う。幼稚園の先生で、いつもわたしたちにピアノを弾いてくれたり歌を歌ってくれたりしていて楽しい人だった。

そんな彼女の為に、祖母の家には次々と弔問客が立ち寄って、少し涙目になりながら祖母との想い出話をして少し手を合わせて、最後には少し笑顔を見せて帰っていく。

お経をあげてくださった御坊さんも、叔父の同級生で、うちの家族との想い出をたくさん語ってくれた。

生前の祖母の人との繋がりを見聞きすることができて嬉しかった。

 

本人の顔を見ることはもう叶わないけど、こうして皆で見送ることができて、想い出話で笑わされたり驚かされたり、最期に素晴らしい時間を提供してくれた祖母には、亡くなって哀しいとか寂しい気持ちもあるけれど、感謝の気持ちがたくさんわいてきた。

 

そして改めて、世代を繋いでいくことの大切さ、みたいな気持ちも込み上げてきた。

やっぱり、いのちって、巡ってるし、途絶えないように繋いでいくのは人間とか全ての生き物の性なんだなぁ、とぼんやりと考えた。

祖母の死と向き合うことで、ただ哀しみに暮れるのではなく、自分なりに未来のことを想像することもできた。

人の生や死を、哀しむのは自分のエゴだ。

もちろん、自分の気持ちに蓋をしたり有耶無耶にしたりはせずに、哀しむときは思いっきり哀しんだ方が、いい。

でも、ちゃんとその気持ちに区切りをつけて、そのあとは、どんな状況からも、なにか学ぶ姿勢が大事だ。

命の終わりにポジティブなエネルギーを見ることができたのも、エゴを手放せたおかげなのかもしれない。

 

子供の頃からたくさんの想い出が詰まった、大好きなおばあちゃんの家で、自分がこんなことを考える日が来るとは思ってもみなかった。

 

 

 

おばあちゃん、最後の最後まで、愛を与えてくれて、ありがとう。

一生お勉強だけしていたい



マジで。

実は勉強大好きなわたし笑

でもその勉強好きには少しからくりがある。

 

高校のときはバカキャラというか勉強しないキャラを貫いておりましたが、実は天才たちに囲まれて物凄い劣等感を抱きながら3年間を過ごしていた。

中学校までは勉強はやればできたので好きだったけど、高校ですっかり勉強そのものを手放してしまい、それなりに楽しい高校生活ではあったけど、やっぱりその後の人生で何度も何度も痛い目を見てきた。

だからきっとわたしの中には凄まじいコンプレックスが残っていて、社会人になってからもずーっと勉強し続けている。

 

大人になってからする勉強は、興味のあることだけだから楽しいし、資格や仕事に繋がるものもあるから学生の頃とは別のモチベーションで取り組んでいる。

でも絶対、自分の内側の根深いところには、このコンプレックスが潜んでいることを自分は知っている。

だから勉強していてたまに苦しくなる。

 

何の為に勉強してるん?今まで勉強しなかった分取り戻そうとしてるだけじゃね?と

 

だがしかし、動機の大半はやっぱり純粋に知らないことへの興味、探究心から来ているから、そこだけを見ていくようにしよう、と言い聞かせてる。

 

最近は解剖学の専門コースを取っている。難しくて大変だけど、楽しい。

 

早く、自分が身に付けた知識を存分にシェアできる存在になりたいなー

不労所得、もしくは副業、本気で探さないとなぁ。

誰か、良い情報おくれ‥‥‥😇🤲

 

「ありがとう」の考え方


この間、哲学のクラスが久々にシビれる内容だったのでシェア。

いつもいつも有難く素晴らしい内容なんだけど、前回のは特に印象的だった。

 

その内容とは、「感謝」について。

 

人が誰かに感謝の意を示すというのは、

殆どの場合はその誰かが自分に何かしてくれた行為に対して、というのが一般的だと思う。

というか誰しもが感謝とはそういうものだと思っているでしょう。

 

仕事でフォローしてくれて、ありがとう。

 

ご飯作ってくれて、ありがとう。

 

素敵なプレゼントを贈ってくれて、ありがとう。

 

これが普通よね。

 

ところが。

ヨガ哲学の考え方だと、逆なの。

 

感想すべきなのは、人に対して何かしらの行為をはたらいた人なの。

人間は、誰かに奉仕することが悦びで、奉仕する機会を与えてくれて、

その奉仕を受け取ってくれた人に対して感謝すべきなんですって。

 

だから、

 

仕事でフォローさせてくれて、ありがとう。

 

ご飯作らせてくれて、食べてくれて、ありがとう。

 

素敵なプレゼントを受け取ってくれて、ありがとう。

 

に、なるわけ!

これ、めっちゃヤバい、マジでシビれた。(語彙力)

 

普通に生きていたら、こんな逆転の発想出てこない。

 

人間が生きていることを実感するのって、他の人と関わっているとき。

天涯孤独なままでは生きていけない。

誰かの役に立ってこそ、自分の価値を見出すことができるんだと思う。

 

自分が誰かの為に良かれと思ってしたことを、その相手が受け取ってくれなかったら、

自分自身を否定されたように感じてしまう。

誰かの行為は、別の誰かが受け取らないと、人と人との関係は成り立たない。

だからこそ、自分の行為を受け取ってくれた人に感謝をする。

そういうこと。

 

毎日家族の分までご飯を作っていると、自分一人の分だったらどれ程楽か、と思うことがあるけど、

やっぱり、誰かの為にご飯作らなきゃ、という役割が与えられていることって、本当はとても有難いことなんだ。自分が作ったご飯を食べてくれる人がいるという有難さ。

役割が与えられることで、責任感が生まれて、自分の存在意義が生まれる、そうやって人は生きているんだなと思う。

 

大人になると、役割や責任の数がどんどん増えて、それがストレスの原因になることもある。

だからたまには全ての役割を振り落として、素の自分になることも大切。

 

でも、人間は他の人と関わりながらじゃないと生きていけない以上、

日頃は自分に奉仕する機会を与えてくれている周りの人にこそ、

感謝しながら生活しないといけないんだ。

 

中には嫌々引き受けていることもあるだろうし、

人生に関わる全ての人に感謝するなんてのはもう悟りの境地なので到底無理な話だけど笑

 

自分に近い人とか、大事に思っているごく僅かな人にだけでもいいから、

自分の行為、奉仕を受け取ってくれてありがとう、の気持ちを持って生きていけるといい。

 

わたしはまず、毎日ご飯作らせてくれてありがとう、の気持ちを育てていくところから始めようと思います🌱

本当は凄く身近にあった、自分磨きのヒント

ヨガのお友達と鎌倉で遊びました。

 

8月の終わり、暑さの中に少し涼しい風が混じり始めて、日も短くなってきて

それでも観光地鎌倉はたくさんの人で賑わっていて、小町通りで食べ歩きしたり

八幡宮にお参りしたり、由比ヶ浜で夕陽を眺めたり、ちょっとだけ海に入ったり、

これまで夏らしいことあまりしてこなかった分、

ひとつひとつのシーン全てが涙出るほど美しくてやけに感動した。

 

 

その美しい鎌倉散策を引き立ててくれたのが、

というよりはむしろ美しさでいうと俄然眩しさを放っていたのが、

一緒に遊んでくれたお友達だった。

 

皆ヨガの先生をしているからスタイルが良いのは当たり前なんだけど、

皆揃って自分磨きに余念がない。

 

ネイルは勿論、まつ毛エクステによもぎ蒸し、小顔矯正まで、

ものすごく時間とお金と労力をかけて自分を磨いている人たちばかり。

 

お手本、こんな近くにいた‥‥!

 

ヨガをやっているからって、それだけで全ての美が手に入るわけではない。

皆それぞれ、努力の賜物なんだ、だからあんなに輝いてるんだ。

努力した分ちゃんと結果に表れている。

だから彼女たちはそんな自分自身を愛することができるんだろう。

と、間近でその現実を目の当たりにした。

 

これが世の女子なんだ。

 

こんなに美しい皆に、不釣り合いな自分をちょっと恥ずかしく思って途中で一度帰りたくなった。

このひねくれた性格から直せよって感じなんだけどさ。

 

でも今日は帰りの電車に揺られながら美しい鎌倉とお友達の写真を見返して、自分の怠け具合を反省して、それから何をすべきなのかが少しだけわかった気がした。

 

そんな夏の終わり。

 

秋には誕生日もくるし、もう少し自分のなりたいレディに近づけますように。

明日から、頑張るんだ😤

原点回帰?

最近snsに飽きてきた、というかそもそも何でsnsやらなあかんの、という疑問が湧いてきて、その疑問を抱えたままTwitterやらinstagramをスクロールする日々。

他人の動向や言動って、本当に本当にどうでもいい。

ニュース自体も、そのニュースに対する色んな人の意見も、いちいち追いかけていたら訳わからなくなる。

 

他人の人生を追いかけて過ぎ去る日々が、虚し過ぎる。

 

アカウント消しちゃうのが早いんだろうけど、その勇気が出ない自分も嫌。

 

ここ最近は、テレビのバラエティとかニュースを観ていて、

スピード感に欠けるし、何を観ていてもネットのネタの二番煎じでしょーもない、と思っていたのだけど、

なんかもしかしたら、このくらいの情報のスピード感くらいが少なくともわたしには合っているのでは、と思い直すようになった。

 

勿論テレビの情報って物凄くたくさんのバイアスがかかっているから、信用ならないといえばそうなんだけど。

 

結局のところは、自分自身で受け取る情報量と質をコントロールする他ないのよね。

 

インフルエンサーとかセレブの生活なんて、興味無いのよ。

誰が何を着ていたって、どこで食事していたって、自分には全く関係ないんだから。

 

本当に気にしていたいのは、家族と、親しい友人のことだけでいい。

 

外見の磨き方を忘れた。

ヨガを始めてから

ほんとうに大切なのは、外見より中身!!

内面を磨いてこそ外側も輝く。みたいな考え方が自分の中にすっかり定着してしまった。

 

でも、どうやらどこかでそれを履き違えてしまっていたようで、

内面に注目するばかり、外側のケアを全くと言っていいほどやらなくなってしまった。

 

勿論、外見より中身、というのは正しいと思うけど

内面のケアだけやっていれば、外側は放っておいてもいい、ということではない。

 

なのにわたしは、内面、内側、精神!これこそが人生において最も大切で

磨くべきものなんだ!外見なんてどうでもいい!という考えになってしまってたようで。

 

ヨガを始めてもうすぐ5年、今更気づくんかい、て感じだけど。

 

それでね、すっかり忘れちゃったわけなんですよ、外見の磨き方を。

 

ここ3年は人付き合いが減ったせいもあって、

外見に気を遣わなくてもいい期間が長かったせいで余計に。

元々濃かった化粧も今はファンデーションすら使わなくなってしまったし

洋服も、古着なのかただの着古しなのかわからないヨレヨレばかりを着ているし

髪も伸びて我慢できなくなったら仕方なく切りに行く。

みたいになってしまった。

何よりもまずいのが、体型。。ヨガして筋肉ついたけど、それ以上に脂肪を蓄えてしまい、

ついには持っているお洋服が着れなくなってきてしまった。

 

最近になって、これっていよいよヤバいよな、という感覚。

やっぱり、出家でもしてない限り、下界で人と社会生活を送っている限り、

見た目も大事やん、て気づいた。今更。笑

内面を磨くことは重要だけど、それで外見のケアを怠ってもいい、ということではない。

 

そして、岩のように重たい腰を上げて、いざ自分磨きしよう、と思ったはいいけど

 

はて、何から始めれば??

今までの自分、何してた???

 

と、まるで記憶喪失のように、何も思い出せなくて。

 

今なんてYouTubeとかsnsに腐る程コンテンツはあるのに、今のこのボロ雑巾のような自分には、何から始めるのが正解なのかが、わからない笑

 

取り敢えずは、風呂上がりのマッサージとかから、始めるべきか?

それとも特効薬的に高いファンデーションを買うべきか?

 

長らく死んでいた外見を磨く心、どうやって蘇らせるかが最近の悩みです‥‥