母方の祖母が亡くなり、急遽お葬式に参列するために母の実家に行ってきた。
羽田から飛行機で3時間の田舎で、子供の頃は毎年夏休みに帰っていて大好きな場所。
大人になってからは、こういう機会での訪問が増え、寂しい反面、久しぶりに会う叔父や叔母、従姉妹たちと顔を合わせられるのは滅多にない良い機会だった。
祖母の通夜は、自宅でおこなわれた。
ずっと病院や施設で過ごしてきた祖母は、実に11年振りの帰宅。
最後の最後に、自分のお家に戻ってくることができて、本当によかったね。
出棺までの数日、普段は皆で食事をする広間に、祖母は静かに横たわっていた。
十数年前、祖父が亡くなったときも同じく自宅での通夜だった。
もう自分が子供の頃とは何もかもが変わっているけど、今も昔もずっと祖母の家は変わらずそこにあって、何かの度に各地から親戚皆が集合する。
この数日も、祖母を囲んで昔話に花を咲かせたり、祖母と孫たちとの写真を眺めたり、従姉妹の子供が広間を走り回ったり、みんなで祖母の周りで各々が色んな想いを抱きながら過ごしていた。すごく温かい時間だった。
人が生まれたときと亡くなるときというのは、周りでものすごくたくさんのエネルギーが動く。
今回感じたのは、必ずしも命の始まりがポジティブなエネルギーで、命の終わりがネガティブなエネルギーではない、ということ。
祖母の死のあとに、たくさんのポジティブなエネルギーを感じることができた。
祖母は感情表現豊かで、賑やかな人だった。長女のくせに奔放で、愛される存在だったと思う。幼稚園の先生で、いつもわたしたちにピアノを弾いてくれたり歌を歌ってくれたりしていて楽しい人だった。
そんな彼女の為に、祖母の家には次々と弔問客が立ち寄って、少し涙目になりながら祖母との想い出話をして少し手を合わせて、最後には少し笑顔を見せて帰っていく。
お経をあげてくださった御坊さんも、叔父の同級生で、うちの家族との想い出をたくさん語ってくれた。
生前の祖母の人との繋がりを見聞きすることができて嬉しかった。
本人の顔を見ることはもう叶わないけど、こうして皆で見送ることができて、想い出話で笑わされたり驚かされたり、最期に素晴らしい時間を提供してくれた祖母には、亡くなって哀しいとか寂しい気持ちもあるけれど、感謝の気持ちがたくさんわいてきた。
そして改めて、世代を繋いでいくことの大切さ、みたいな気持ちも込み上げてきた。
やっぱり、いのちって、巡ってるし、途絶えないように繋いでいくのは人間とか全ての生き物の性なんだなぁ、とぼんやりと考えた。
祖母の死と向き合うことで、ただ哀しみに暮れるのではなく、自分なりに未来のことを想像することもできた。
人の生や死を、哀しむのは自分のエゴだ。
もちろん、自分の気持ちに蓋をしたり有耶無耶にしたりはせずに、哀しむときは思いっきり哀しんだ方が、いい。
でも、ちゃんとその気持ちに区切りをつけて、そのあとは、どんな状況からも、なにか学ぶ姿勢が大事だ。
命の終わりにポジティブなエネルギーを見ることができたのも、エゴを手放せたおかげなのかもしれない。
子供の頃からたくさんの想い出が詰まった、大好きなおばあちゃんの家で、自分がこんなことを考える日が来るとは思ってもみなかった。
おばあちゃん、最後の最後まで、愛を与えてくれて、ありがとう。