大好きだったなぁ、トレインスポッティング。
この映画で散々、レントンが人生は選択の連続だ、と言っていて
観ていた当時から「かっけぇな、そうだよな、人生って全部自分で選択したことでできてるんだよな、うんうん」とは思っていたものの。
つい最近になるまで、その選択に対する責任にあんまりピンときていなかった。
もう大人になってからだいぶ経つのにね。笑
自分で選んだことには、責任が伴うのよ。
自分が選ばなかったことにも、責任はあるのよ。
これを、頭ではわかっていても、体やメンタルがダメージ受けるまで、理解できてなかった。
よく、自分軸で生きよう、他人に振り回されないように、とかいうけど、
結局「振り回される」という受動態をとりつつも、自分自身の選択の結果で振り回されてるわけだから、「振り回されにいってる」んだよね。
12月頃から、新しい仕事を始めたり、家族が引っ越したり、夫の休日の日が変わったりと、
変化が多くてそれに合わせて自分の生活リズムもちょっとずつ調整していたのだけれど。
2月の終わりになって、自分が疲弊していることに気づき、驚愕。
そして、自分の周りは全然何も変わっていないことに気づいて、更に驚愕。笑
これで、ああ、周りが変化したからって、自分がそれに合わせないといけないなんてことは全くもって必要ないんだな、と気がつきました。
周りの人に変化があっても、それにどう反応するかはやっぱり自分の選択なんだなーって。
自分の選択を「仕方なかった」とか「他に選択肢がなかった」とか言って人の責任にするから、だんだんイライラして疲れてくるんだな、というのに、ようやく本気で気がつきました。
今までは頭でなんとなくわかってたけど、それが整理できてなかった。
そして結局、周りがどんなに変わろうと、実際自分には関係無いこと、切り離して考えないと駄目だと言うことを学んだ。
勿論、経済的に影響があったり逃れられない打撃を受けることもあるけど。
極論を言うと例え大切な人が亡くなったとしても、それ自体が自分の人生に変化を与えるのではなくて、それに対するリアクションが自分の人生を変えるんだろうなと。
哀しみに明け暮れながら生きるのも、哀しさをバネに逞しく生きるのも、全部事象に対する自分のリアクションだなって。
ヨガの哲学でも、"Life is action. Life is reaction." と習いました。
ここ数ヶ月のわたしは、自分や周りの変化に対して、必要以上のリアクションをとっていたせいで、自分を疎かにして、自分で自分を疲れさせてたなーと。全力で振り回されにいってたなーということに気がついた。
シンプルなことなのにね。みんなきっと器用にやってるんだろうな。
「リアクション」
これについても、わたしのヨガの先生は、いつも自分とは違ったリアクションの取り方をして、新鮮なのと同時に、その先生のリアクションの方が、人生、無駄なものを抱え込まずに楽に生きられるな、と思う。
このリアクションについてもまた今度書こう。
来月はいつもの自分の選択パターンを見直すことを目標にしようと思います。